6/17(水)上から見るか下から見るか(禿)
気づけばアジサイが咲き誇り
じめじめ蒸し暑い梅雨らしい時期になりましたね。
Zoomにようやく慣れ始めたと思ったら
世の中オンラインでできる目新しいサービスがどんどん増えて(もともとあったのかも)
なんでもできるなあと感心しつつ
ついていくのに四苦八苦しています。
最近、話を聞いていてリンクしたことがありました。
何年か前に、マンガ家の竹宮惠子先生のお話を聞く機会があり
「すべてのコマは読者をひきこむトラップ」
とおっしゃってたのが非常に心に響きました。
そしてつい最近、ある映画監督の方がふと洩らした、
「1つずつのショットは映画としてつまらなくても、
前後の組み合わせでなんかおもしろくなったりするんですよね」
2つはニュアンスは違いますが
ある時から私もそういうことを考えるようになりました。
というより、そういう頭も持たないとという自戒ですが、
こういう言葉を聞くたびヒヤリハッとします。
上記はシーン作りの話ですが、役作りの話で考えると
唐さんの本は特にそうですが、役の大小はあっても
無気質なコロスという役はほとんどありません。
どんな役も愛らしく、おいしく、人格があります。
たとえ人格がなくても竹宮さんのおっしゃるように
1作品の中身である以上
どんな役もシーンも意味と役割があると思えます。
それに前の中野の棘の話じゃありませんが
どんな小さい役も高い殺傷能力を持つ可能性も秘めています。
(もちろん大きい役はそれだけでやりがいあります!)
ひとつの役の中でも、
ついつい欲または不安がでて
このシーンもこのシーンもこうやりたい!魅力的に成立させたい!と思ってがんばるあまり、
通してみると自分でもうるさく感じたり、意味が伝わりにくかったり
ただただ肉体が疲弊していくのを体感してきました。
古くは『ユニコン物語』(2006)で膨大なセリフ量を猪突猛進でつっこんで
声を枯らした時は、これは声に関してですが、
唐さんから「声には高中低、3つある!」とお叱りをいただきました。
ベースが日常より大声なのでついついそうなってしまいがちなのですが
今、丁寧に読み合わせで学んでいる、意味・感情に沿った、
それでいてダイナミックな冒険をしてみたいと思います。
もちろん
自分の肉体感覚と向き合うことも
役だけの感情の流れも大事にしなければいけない。
昔、中野に「木を見て森を見ず」とよくダメ出しをもらいましたが
両方の行き来が永遠の課題です。
「お芝居づくり、上から見るか下から見るか」の境地です、笑
ああ、あとは以上の課題を、愛と勇気を持って体現するだけ!
(↓すみません、見てはいないです...そして竹宮さんとは何の関係もありません)
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