11/25(月)長屋で暮らしてくれた人
2019年11月25日 Posted in 中野note
昨日、鎌倉に行きました。
2009年の『下谷万年町物語』に出演して下さった鈴木能雄さんの
追悼展があったからです。
能雄さんは画をやり、骨董をやり、ツリーハウスを息子さんに造らせ、
役者もやってくれた趣味人でした。
「能雄さん、遅くなってごめんなさい」と、
最終日に何人かで駆け込みました。
初め、劇団の携帯電話に問合せしてくれた能雄さんは、
ちょっと強面で、強引な感じが、
電話に出た劇団員をビビらせました。
「高圧的なおじさんから電話でした」
「次は、オレに替わってくれ」
そう話し合ったのを覚えています。
それまで劇団員だけで芝居をつくっていた私たちは、
2007年に学生時代からいた仲間たちが何人か抜けたことに、
大きなショックを受けていました。
世の中はそう甘くはないことを痛感したところで、
大勝負に出よう、
『下谷万年町物語』を一年半かけて準備し、
窮地を脱しようともがきました。
それから一人一人と出会いました。
中には上手く関われなくてお互いに傷付いた人もいましたが、
ともかく、60人を超える大人数が集まったのです。
その中に、能雄さんもいました。
二度目の電話に私が出てお名前を覚えていることを伝えると、
こちらの警戒を察していたように、
「態度がでかい人だと思ったでしょ!」と言われました。
なんだかホッとしながら、採用が決まりました。
直に会った能雄さんは、大人の遊びを知っているダンディでした。
おしゃれでカッコ良い。けれど、剽軽なところが、
電話の第一印象を吹き消しました。
それから稽古があり、本番があり、
能雄さんは万年町の長屋の住人として、
一緒に創った芝居で活躍してくれました。
初日のお客さんが出演者より少ない43人、
千秋楽は300人という、
たいへん乱暴な公演でした。
芝居が跳ねると、駆け足でテントをあとにしていた能雄さん。
その意味を、やっと昨日になって痛感しました。
能雄さんの住まいは、大船駅からモノレールに乗って数駅、
そこから少し歩いた場所にあるのです。
この道を浅草まで通ってくれていたのだと思うと、
ありがたくて、涙が出ました。
当時の自分はまだまだ未熟で、人がひとりひとり暮らしていることを、
あの駆け足の意味を、本当にはわかっていなかったのです。
公演後、何日か経って、
私たちは浅草のお蕎麦屋さん「十和田」で、
打ち上げの大宴会をしました。
交通費の補助程度しか出せない出演条件でしたから、
せめてお礼をしたかったのです。
遊びを心得た能雄さんが「こんな宴会をやれるなんて大したものだ」、
そうねぎらってくれました。
高圧的だったおじさんはひたすらに優しい、
赤ら顔の能雄さんでした。
あの日、したたか酔っぱらった能雄さんが
家の前の階段をどうの登ったのか想像すると、
可笑しさと、寂しさがこみ上げてきます。
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