12/14(土)気を付けなければならないこと

2019年12月14日 Posted in 中野note
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↑岡本章さんによる講座「能と現代演劇の交流」。最前列で学生気分。

今日は私が世話人をしている、
神奈川芸術劇場×横浜国立大学の講座「芝居の大学」の、
2019年度、第1回目が行われました。

この「芝居の大学」は実に4年目となるシリーズで、
これまで、過去3年間のゲストをざっと並べてみると、
中根公夫さん、遠藤啄郎さん、佐藤信さん、吉井澄雄さん、
白井晃さん、安藤洋子さん、清水宏さん、
と、我ながら濃厚なメンバーをお迎えしてきましたが、
今回は、錬肉工房の主宰者である岡本章さんがいらして下さいました。

この講座、いつもは対話形式で進めてきたのですが、
今日は昨年度まで明治学院大学で教鞭を取っておられた岡本先生ですので、
自分の出番は最小限にして、学生時代に戻った気分でお話を拝聴しました。

会場は、せっかく能のお話を聴きますので、
上大岡駅から歩いて10分、久良岐能舞台に設定しました。
途中の道はかなり暗くて、迷った受講生もいたのですが、
いつもテント劇場で場所にこだわってきた唐十郎門下としては、
講座でも、やはり空間には凝りたいのです。


サービス精神たっぷりの岡本先生はたった2時間で、
能の成り立ち、パイオニアである観阿弥・世阿弥親子の凄さ
ご自身の出自と観世寿夫さんへの感動、能が持つドラマツルギーの多層性、
錬肉工房が押し進める「現代能」の試み、能舞台の特徴、
日本各地にある野外舞台の面白さ、という盛り沢山の内容を、
たくさんの資料をまじえつつテキパキと手ほどきして下さいました。

日本の現代演劇界には、
「現代の能」をつくったのが鈴木忠志で、
「現代の歌舞伎」を実現したのが蜷川幸雄、
という考え方がありますが、
例えば、同じ能に傾倒した表現者として、
鈴木さんと岡本さんとでは、大きな違いがあることに気付かされます。

鈴木さんは、能役者が持つ身体性や舞台が持つミニマリズムの豊かさに
強い関心を持ち、これを生かした創作活動を展開していますが、
岡本さんは「能」全体への忠義だて、
表現としての可能性の見出し方がもっと徹底しています。

能の演目が持つドラマツルギーにも全面的に惚れ込み、
様式化された能に原初のエネルギーを吹き込んで、
現代化を図っておられると感じました。

「青は藍より出て藍より青し」という言葉がありますが、
岡本さんのお仕事は、現行の能に触発されつつ、
一見すると、かなり型破りなこと、
時には演者が面を外すというタブーにまで踏み込みながら、
能自体を刷新するチャレンジを続けていらっしゃいます。
国宝級、並居る大家が岡本さんの作品に参加されていることこそ、
その証左です。

講座は、例えば傑作『井筒』を題材に、
小面を付けた演者のはみ出た顎に注目しながら、
能が演者と役柄を並走させながら進行していることに注目します。
その際、役柄もまたひとつでなく、
「里の女」「紀有常の娘」「在原業平」が混在しながら同時に進行することも、
映像を止めながら丁寧に説明してくださいました。

たった一人のうちに、四つの人格が入り乱れる。
これら役柄の行き来、移り変わりの妙、
最終的には、一人にして四人格がそれぞれの立場から同時に嘆きうることこそ、
能の豊かさ、面白さであると教わりました。

あと、特に面白かった点としては、

行事などで行われる仮設の野外舞台に臨む時には、
ステージから飛び出た釘にくれぐれも気を付けよ、
という言葉を、世阿弥は残しているのだそうです。

世阿弥が釘を気にしていた、ということで思い出しましたが、
我らが唐さんは、折に触れてカッターナイフには特に気を配るよう諭されました。

出来るだけ使わずにおくべし。
どうしても使うとすれば、充分過ぎるほどに注意せよ。
というのが、唐さんの教えです。
あれはいかにも簡単に手に入る道具だが、
場合によってかなりザックリ手を持っていかれ、大事になりがちである。
そうもおっしゃっていました。

唐さんを通じてみると、世阿弥にもなんだか親しみが湧いてきて、
同じ舞台に臨む「現場の人」という感じがします。

ちょっとした怪我、
細部の躓きが舞台の命取りになることを熟知しているのです。

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