4/27(火)石鹸箱の残り湯、その衝撃

2021年4月27日 Posted in 中野note
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↑若葉町ウォーフでの『あれからのジョン・シルバー』冒頭。
そのようなわけで、石鹸箱の残り湯にかなりビックリしています。

先日、『海の牙-黒髪海峡篇』における「視線」の重要性について書きました。

主人公・呉一郎とヒロイン・瀬良皿子の出会いは、
大車輪のさなかに起きた、まさに一瞥の交わし合いにある。
それを力強く裏付けるのは、
瀬良皿子⇨シェエラザード⇨『アラビアンナイト 』の語り姫
つまり、眼以外を衣類で覆った中東の女性の視線の鋭さに他ならない。
そういう話でした。

これに気がついたのは、
当時、室井先生とした何気ない会話に助けられたとも書きました。
自分は国際経験に乏しいので、こういう感覚にはうといのです。
だから、人に実感をともなった話をされないと、ちょっと到達できない。

同じような話で、自分は佐藤信さんに助けられたことがあります。

2017年度。息子が生まれたばかり、神奈川芸術劇場で働き始めたばかりで
右往左往していた自分は、唐ゼミ☆公演を若葉町ウォーフでやろうと
考えました。あそこは単なる小空間ではなく、他ならぬ佐藤信さんの
小屋なのです。せっかく近所に信さんがやって来たのだから、
何か面白いことがあるかも知れないと、希望を持ちました。

結果的に、公演を2ヶ月後に控えた2017年11月。
信さんと話していた時に、その効果は現れました。

別にお願いした講座の中で、
演目『あれからのジョン・シルバー』冒頭について、
信さんはこんなエピソードを話してくださったのです。

「銭湯に持っていった石鹸箱。翌日、その箱のフタを開けると、
 中に残り湯が入っている。それを見ただけで、唐さんはビックリする。
 とにかくビックリしてそこに"海"を感じる。唐さんはそういう人だよね」

これを聴いた時、自分は衝撃を受けました。スゴいと思った。

『あれからのジョン・シルバー』は、シリーズの終盤、
勢いよく始まった序章からすると、かなり情けなく最終章を迎える話です。
「海賊ジョン・シルバー」になる!という志はどこへやら、
生活苦に追われた登場人物たちは誰も彼もがショボく、
しがない商売でやっと凌いでいる。そんな感じに読めるのです。

だから私は、劇の冒頭にある石鹸箱のくだりも、
ああ、もはや"海"は、石鹸箱の中の残り湯くらいのもんでしかない、
まるで"海"の残骸みたいだな、そう思っていました。

そこへ来て、信さんの何気ない一言。眼からウロコが落ちました。

そうです。相手は唐さんなのです。
唐さんは、決して生活に押されて想像力を減退させたのではなく、
生活のディテール、ここにある石鹸箱の残り湯にも、
平然の大海の荒波を思い描く人なのです。

ぬかった、と思いました。
つい凡庸な想像力に堕して、シニカルに読んでいた自分を恥じました。
「これだけしか"海"がない」のではなく、
「ここにだって"海"はある!」という唐さんの強気と無邪気を、
オレは完全に見落としていた!

信さんの一言で、モノクロが総天然色になるくらいに、
『あれからのジョン・シルバー』観が塗り変わりました。
あの年、テント公演をできないのは残念だったけど、
信さんの一言だけで、ウォーフにお世話になった甲斐がありました。

そういうヒントに出会えた時、作品は上手くいく。
そういう偶然を引き寄せられない公演は底々の出来栄え。そういうもんです。

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