4/29(金)必ずしも英国が良いわけではない
猫の捜索願いを目にするのは二度目。が、これはインパクトある。
片目の黒猫を捜している!
Albanyにいて感じるのは、ここで行われる劇場運営が
日本のそれよりはるかに多く地域の人たちに関わっていることだ。
もともとそう思ってこの劇場を研修先に選んだわけだが、
実際に一緒に過ごしてみて、強く実感する。
そのため、この劇場が行う催しは圧倒的に音楽イベントが多い。
子ども向けのプログラムを除けば、これまでにストレートプレイは
3つしか観なかった。つまり、それだけせりふ劇の間口が狭い
ということなのだ。
また、辣腕のソフィーが仕切るシニア向けの定例WSに立ち会った。
皆で染め物によるバナーづくりをしたり、サイモン&ガーファンクルの
曲を合唱するのに参加した。作業や練習そのものは90分程度の
長さだが、皆さん早めに集まってくるし、休憩時間もたっぷりとる。
劇場から供されたお茶とお菓子で団欒して過ごし、
終わった後もみんなで残って茶話会のような感じになる。
とてもステキな光景で、それら一連が終わると、
ある人は自身で帰途につき、別の人は家族が迎えにきた車に乗って
帰って行く。ソフィーはそのひとりひとりと話をしながら見送っていた。
ソフィーはオーガナイザーであり、参加者の娘や看護師のような
存在でもある。「ソフィーはどこ?」と誰もがすぐ彼女に助けを求める。
その度にソフィーは二つの会場を駈けまわっていた。
まるでデイケアサービスのようだと思った。
内容的にもアートの度合いは薄めにしてあり、そのかわり間口が広い。
そして、Albanyがこうなったのには明確な理由がある。
地域経済が逼迫したからだ。
21世紀に入った頃、この地域は困窮した。
Lewishamはシニアにかかる医療費を支えきれなくなり、
Albanyは文化予算の削減に喘いだ。そこで両者は手を取り合ったのだ。
追い詰められたもの同士が結びついて、劇場の新たな事業展開に活路を
見出した。言わば、窮余の一策ともいえる。
必ずしも英国が良いわけではないと書いたのはそういうわけだ。
医療と文化、その両方がいまだ一定水準の予算規模を保っている日本は
幸せである。しかし、若者が減り、高齢者が増える国家経済の行き先を
誰しも明るいとは思わない。だから、来るべき時のためにと思って来た、
ともいえる。
いずれにせよ、そういう苦さも含めて自分は学びの日々を送っている。
音楽イベントに集まる若者たちにとって、Albanyは劇場でなく、
DJのいるクラブとしか記憶されていなのかも知れない。
そういうことも思う。
それが良い。それで良い。やっぱり劇場だと思われたい。
こんな風に3段階の感情が湧き、正解は見えない。
やはり、劇場は最高水準の芸術性を追究するべきでしょう。
という思いもある。最高水準の芸術性・・・。
しかし、しかしである。
これらは、やりようによって共存するのではないか。
それどころか、人々の事情や暮らし向きに接していることは、
むしろ劇をつくる作業にとって必須なのではないか。
実は、そういう思いもあってここにいる。
人間を描く、人間の営みだから、と言える。
そういったことを唐さんは『下谷万年町物語』でこう書いている。
これから劇作家になろうとする少年・文ちゃんに、
ヒロイン・お瓢が覚悟を問いかける場面だ。
お瓢 転がってくるもの。
文ちゃん え?
お瓢 果てしなく、いつも、こうして、転がってくる......。
文ちゃん はい。
お瓢 なりゆきとか、ゆきずりとか、手垢にまみれた、下々の、
様々なこれらを、おまえは、これからもずっとつかんで行けんのか?
自分のいる地区には、ものづくりにとって一番大切な魂がある。
そう信じている。
他方、作品をつくるということは当然ながら技術であり、
技術は都心で学ぼうと夜はセントラルに通う。
そんなイメージで過ごしている。
技術や形式だけの学んで帰りたくないと思って行動している。
けれど、もちろん、帰国後の仕事によってのみ正解・不正解は証明される。
だから必死だ。
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