4/29(祝水)私のめぐり会い②
2020年4月29日 Posted in 中野note
↑昨日の写真のココに注目!
『唐版 滝の白糸』に取り組んでいだ時、
私にもささやかな「めぐり会い」が舞い降りたことがありました。
まずは、この戯曲についてご説明しましょう。
舞台は都市開発を目前にゴーストタウンと化した下町の長屋、
かつてそこに住んでいた青年「アリダ」が貯めた10万円を、
彼に縁のある二人の人間が奪い合います。
一人は、アリダの亡くなった兄の恋人「お甲」。
一人は、かつてアリダを誘拐して警察に捕まった「銀メガネ」。
いまだ青二才であるアリダの甘さに漬け込み、
世馴れた二人の男女が巧みに同情を引き寄せ、
10万円を手繰り寄せようとする鍔迫り合いがこの芝居の面白さです。
やがて、「10万円の奪い合い」というセコい争奪戦を飲み込むように、
長屋全体が都市開発に巻き込まれていく。その様子は、
可笑しくも無残なクライマックスを生み出します。
その際、終幕寸前の盛り上がりとして使われるのが「水芸」です。
それを繰り出す「お甲」は、小人プロレスのメンバーに
寄生して糊口を凌いでいるというなかなかユニークな設定のヒロイン。
その彼女がアリダの気を惹くために、無理やり水芸を披露する。
このシーンについて、突如として私に閃きが訪れたのです。
きっかけは、買い物を終えたコンビニの前で原付バイクが発進するのを
見たときでした。そのバイクはかなりの年季ものだったらしく、
排気マフラーがコツンとコンビニ駐車場の車止め石にぶつかった瞬間、
よほど錆びついていたのでしょう、筒の真ん中あたりにポロリと穴が
空いて猛烈な音をたて始めました。
「これだ!」と思いました。
それまで私は、『唐版 滝の白糸』終盤の水芸に違和感を覚えながらも、
突き詰めて考えてはいませんでした。
だって台本に書いてあるんですから、その通りやれば良いと。
ところが、この原付マフラーの穴に接して、
そこには歴としたリアリズムが貫かれていることを悟りました。
要するに、お甲が披露する水芸とは、
ゴーストタウンのそこここに溢れている腐食しきった雨どいや水道管、
排水管に穴を空けていくことだったのです。
置き去りにされた街ですから、すっかりボロっちくなっているわけです。
それらをポンと叩けばすぐに穴が空いて、水がチョロチョロと吹き出す。
いかにもお甲に相応しい、ショボさの中に愛嬌を感じさせる、
なけなしの水芸です。
ラストシーン、
長屋の部屋にある流しに手首を切って血をたらせば、全ての水が血に染まる。
あらゆる流水は、水道によってつながっているからです。
たった一滴に血で全ての水が真っ赤に染まるのには想像力の飛躍があります。
一方で、ゴーストタウンにおける水芸には、唐さん流のリアリズムがある。
あの時、原付バイクのマフラーに穴が空くのを目撃しなければ、
こんな気付きもなかったと思いますが、これこそ、
作品に取り組むときの「めぐり会い」、醍醐味ではないでしょうか。
『唐版 風の又三郎』を読みながら、
再びあんなことがが起こってくれないか、日々、期待して生きています。
狙いつつ、狙ってはいけない。難しいバランスではありますが。
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