5/23(土)痛いけど気持ちいい

2020年5月23日 Posted in 中野note
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今日も朝から、恒例の本読みをしました。

最近、手を怪我してかなり困っています。
重いものを抱えながらバランスを崩したのが原因なのですが、
咄嗟に出した右手を負傷しました。
手首、親指の付け根にかけてが、何か持つと痛い。
何も持たなくとも、ある角度になると痛い。

整形外科に行ったところ、骨は異常なし。
安静にして自然に回復するのを待つしかないそうなのですが、
利き手なので非常に不便です。

例えば、財布の小銭入れ部分を開ける動作、あれ、激痛が走ります。
また、車のウィンカーを出す所作、もう曲がりたくない。

一方で、この"痛み"というものは、
唐十郎作品を読み解く上で、すごく重要な要素でもあります。

それが顕著なのは、唐さんが脚本を書いて、
新宿梁山泊の金守珍さんが監督した映画『ガラスの使徒(つかい)』。

この作品では、望遠鏡や顕微鏡に使う巨大レンズ、
あれを超絶な精度で磨くことのできる職人を唐さんが演じたのですが、
主人公たちが揃いも揃って掌の真ん中に傷を負うんですね。
一方、敵役は決して怪我をしない。

キリスト教では、イエスが磔刑になったときの傷を、
「聖痕」「スティグマ」と云いますが、この映画でも、
ちょうどあの位置に、勲章のように傷が描かれています。
つまり、考えようによって"傷"や"痛み"こそ生きている証なんですね。

唐さんにとって、痛覚は"生"や"肉体"を実感するための宝物です。
だからこそ、『ガラスの使徒』はああいう展開になっていますし、
他のあらゆる作品でも、主人公たちは身も心も傷つきながら、
その傷に鍛え上げられていきます。

コンビニで小銭を出すとき、十字路でウィンカーを上げ下げするとき、
ああ、生きているなあと実感します。

そして、ただもう早く治って欲しいとも。

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