7/14(水)好きなせりふを言ってみて①

2021年7月14日 Posted in 中野note
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↑せりふをリクエストされた米澤は、『唐版 風の又三郎』二幕の
テイタン学芸会『ベニスの商人』の一節をそらんじたそうです。

先日、下井草に行った話をしました。
そこで、米澤が参加したダンスの振り付けをしてくださった
岡由里子さんから、公演終了の連絡をもらいました。

そこには、米澤へのねぎらいとともに、
公演のための集まりの際に米澤が、
スタジオを主催する竹屋啓子さんから
「何か唐ゼミのせりふを言ってみて」とリクエストされた
エピソードが書かれていました。

そういえば、竹屋さんはせりふに込められた詩情に敏感な方で、
僕らが数年前に若葉町ウォーフで稽古していた時も、
事務室に漏れてくるせりふを聴きながら
「やっぱりステキなせりふねえ」と言われた記憶があります。

自分は、こういう意見を聴くとハッとします。
唐さんの門下でありながら、実は自分は、詩的なセンスに
欠けるところがあると思っています。

芸術とか詩って、自分とは縁遠いなあと思って育ちましたし、
文学性や詩的な繊細さって、ストレートに表現するに恥ずかしさが
伴います。だから、竹屋さんのように心から言葉を味わっている
姿に接すると、憧れのような感覚を持ちます。

思えば、自分の言葉に対する感覚というものは、
もともとビンビンきていたのではなく、
唐さんとの出会いによって開発されてきたのだと思います。

大学に入ったばかりの頃に出会った唐さん周りの人たちは、
まさに言葉に賭けているように私の目に映りました。
貧乏しても、過酷でも、ひとつのせりふに全霊で突撃していく姿。

私は、そういう人たちを見て言葉やせりふの力を痛感してきたのです。
つまり、もともと備わっていた自分の感性で詩情を捉えたのではなく、
そういうものに魅入られた人たちを通じて、その価値を知ったのです。

言葉が、せりふが、一番のごちそう。
米澤のエピソードを聴いて、自分自身の学生時代を思い出しました。
ちょっと長くなったので、続きはまた明後日。

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