7/28(木)パーセルの職場②
↑ウェストミンスター寺院は11世紀に造られた。パーセルが生きた
時点ですでに500年の伝統を持っていた
ヘンリー・パーセルの生没年は1659-1695年だから、
約36年の短い生涯だった。
衛生環境、医療、栄養、あらゆる条件が劣悪だったから、
子どもが成長するのが大変だった時代だ。
実際、パーセルの子どもたちは1歳に満たず何人も亡くなった。
彼の父親もウェストミンスター寺院に勤めた音楽家で、
ヘンリーの息子も同様だったらしい。職業選択の自由はない。
面白いのは、要するに国家公務員的ミュージシャンである
彼の一生が条件闘争の連続だったことだ。
さして多くはない給料はすぐに未払いになる。
さらに、国王に随行して音楽演奏する際、移動費が自費負担に
ならないよう交渉したともいう。
つまり、それまでは出張費を自分で出していたのだ。
出かけたがるのは王様なのに、あまりに理不尽だ。
このように、当時の労働条件はなかなか過酷だったらしい。
制服にあたる衣裳が擦り切れると、これを新調するための折衝が始まる。
17世紀後半といえば、エリザベス1世の統治時代を経て、
国王が斬首されたクロムウェルのピューリタン革命も乗り越え、
王政復古がなされた時代だ。王室の財政も不安定だった。
王が旅先から帰ってくる時、パーセルは様々な詩人の詩に曲を
つけて王を迎えた。オード(頌歌 しょうか)というやつだ。
くだらない詩もあれば、優れた詩人の作もある。
それからもちろん、教会でのセレモニーのために
アンセムをつくった。讃歌とか祝歌とかのことだ。
今回のロンドン滞在中、
沢山の教会のイブニング・コラールに参加してきた。
オルガン演奏からスタートし、開会の挨拶、懺悔の言葉、
ここから合唱と神父(牧師)や会衆(氏子総代?)による
詩篇朗読が繰り返される。合唱団と神父さんが対話的に
歌う時もあって、まだ規則性や手続きの順番を完全には
掴み切れていない。
こういう時に立つ。こういう時は座る。
こういう時はひざまづく。一緒に歌を歌う。
最後に寄付を(自分はほんの少し)する。
全部見よう見まねで、ワタシは外国人です!
という空気を振り撒きながら参加している。
いずれ立派に手順をこなせるようになってから帰国したいけれど、
この時点でも、パーセルが何のために曲を作り、オルガンその他の
楽器を演奏し、時にはバスとカウンターテナーで歌ったのかが
想像できるようになった。
彼は一生をずっとウェストミンスターの周りに住み、職場とした。
ロンドンを離れるのは国王の随行時だが、上記のことから想像するに、
そんなに生やさしいものではなかっただろう。
食事中の演奏を所望され、聴いても聴いていなくも演奏し続ける
という習慣が当たり前だった時代だ。
パーセルは劇場用の曲も作ったから、これまではそちらに惹かれてきた。
『ディドとエネアス』の他に、『妖精の女王』『アーサー王』
『テンペスト』『インディオの女王』などを好きで聴いてきたけれど、
今回の滞在を通じてオードやアンセム、王や女王の死に捧げた葬送曲を
もっと聴いてみたくなった。
作曲の経緯が経緯だから、似たり寄ったりの曲がたくさんあって、
駄作も傑作も入り乱れているらしいけれど、とにかく聴いてみたい。
生で聴いて、録音で確認して、そういう繰り返しの残り5ヶ月に
なると思う。
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