7/9(木)横川のあまじょりご
2020年7月 9日 Posted in 中野note
↑ひさびさの『ナジャ』。ひさびさのアンドレ・ブルトン。
紅テントに通ううち、いつか巌谷國士先生ともお話しできました。
その中で、私たちは地方公演をしているらしいのです。
会場は神社の境内。
公演本番が終わり、後片付けもあらかた終えて、
踏み荒らした会場の整地にかかっている様子でした。
釘やハリガネ、木っ端などを拾い終わり、
劇団員の重村がジャリを均等にならすためのトンボをかけていました。
しかし、プライベートで実に几帳面な彼には、
劇団のこととなると妙にぞんざいになるところがあり、
トンボをかけたあと、ジャリが一部えぐれて黒い土の部分があらわに
なってしまっていました。
神社の人がそれを見とがめて、私に、
「あそこもキレイにしてくれなければ。もうすぐお祭りなんだから」
と言う。
私は謝まりながら、近く、ここでどんなお祭りがあるのか訊きました。
その答えこそ、「横川のあまじょりご」。
そこで目が覚めました。しかし、「横川のあまじょりご」。
あまりにはっきり耳に残っていたので、枕もとにあるスマホですぐに検索。
すると、残念ながらそんなお祭りはおろか、
「あまじょりご」という言葉さえどこにも無いようなのです。
・・・こんなことを書いてしまったのは、『唐版 風の又三郎』3幕に、
「ナジャ」という言葉が登場するからです。小説のヒロインの名前です。
気になって久々に文庫本を買って読み直したために、
作者のアンドレ・ブルトン、シュルレアリスムのことも思い出し、
学生時代に自動筆記や夢判断について読んだ記憶がまざまざと蘇りました。
自分の中には広大な無意識が眠っている。
それを意識の世界に敢えて引き出すのがシュルレアリスムです。
今の自分の年齢となればずいぶん青臭いようにもを感じますが、
こういうものを信じる気持ちは、アートの基本のようにも思えます。
思えば、最近の自分は、唐さんの劇に出てくる登場人物の足もとばかり
見すぎているのではないかとも反省しました。
「わけわかんない」「なんかすごそう」
多くの人たちが「芸術」に向ける熱っぽい眼差しや期待にも応えたい。
そんな思いを新たにしました。
「あまじょりご」。どうにも気になります。
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