3/24(火)京都の山に登る
2026年3月24日 Posted in 中野note
↑学生時代、水曜日は夜中まで稽古して唐研究室で寝た。
9:30頃に室井先生がやってくる。先生のおやつ用のチョコを巻き上げて
コーヒーを飲み、唐さんが10:00過ぎにやってくるのに備えた。
14:40から通し稽古。毎回、異常に緊張していた。
今日は、3年前に亡くなった室井先生の誕生日。
そこで、京都の大文字山に登り、先生を偲んできました。
行きの新幹線では、V.フルッサー『写真の哲学のために』の、
長すぎる解説を読みました。
文章のなかの室井先生は相変わらず、
(1)現在が文明の転換点であること
B.C.1500 ビジュアル→文字 A.C.20世紀末 文字→再ビジュアル化
(2)写真というかなり装置(システム)寄りのメディアにおいてすら、
主体性と自由が発現できる
ことを畳み込むように叫んでいます。
当たり前ですが、室井先生は愚直なままです。
自分は(1)には懐疑的です。
2026年になったいまも室井先生は同じように言えるかな?
自分の生きる時代を歴史の転換点だと思いたがるのは、
単なる自己愛ではないだろうか。
他方、(2)は気になるし、はやり切実な問いと希望です。
"自由"の問題だからです。
そして、帰りの新幹線のなかでつらつら考えます。
今の私の日々の営みを見て、
社会人としての室井先生は、「お前は偉いな」と言うでしょう。
が、美学者としての先生は、自分を許さないとも思います。
もちろん重要なのは後者です。
室井先生は自分を棚に上げるところがズルいし、厄介ですが、
これはもう仕方ありません。闘うしかないな。
亡くなっているんだから無視できそうですが、無視したくないのだ
と今日、自覚しました。こうなれば正面戦だな。オラァ!
トラックバック (0)
- トラックバックURL:

コメントする
(コメントを表示する際、コメントの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。その時はしばらくお待ちください。)